一文字違いで

閑静な住宅街だ。

そういうと聞こえはいい。

だが新興住宅地として開けはじめてはいたものの、昨今の不況でそこいらの建売住宅は空家が多い。建物ばかりがあって人間が少ないところを閑静と呼んでもさしつかえはないだろうか。

その閑静な住宅街を一人の男が歩いていた。やけにヘンな歩き方をする男だ。つま先にかたむいている。そのせいかあまり足音がしない。男の前方にはやはり一人で、女が歩いているのが見えた。OLだろうか、薄いグリーンのスーツにショルダーバッグを提げている。

二人とも駅の方から歩いてきたらしかった。

-

上手い具合に人気のないところ人気のないところへ足を向けてやがる。こっちにとっちゃ好都合この上ないぜ。

そろそろ感づかせるか、俺はこれまでひそめていた足音をたて始めた。ちょうど高さのないトンネルに入ったところだった。上を電車のレールが走っている。俺の足音が女の足音に混ざってカツーン、カツーンと音を響かせる。

だが、女は後ろを振り返ることもなく、淡々と歩を進めていく。

おかしいな、普通の女なら足音にびっくりして必ず後ろを確認するか、振り返ることも出来ずに一旦すくむはずなんだが。

俺は一応あたりをもう一度見回した。この辺りは宅地造成された郊外で静かなものだ。この時間に灯りがついている家はなく、かすかに見える光は、まず一キロは先にあるコンビニのものだ。しかも、おあつらえむきに高架を抜けたところにはビル工事現場がある。そこに引き込んじまえば、人目にふれることはない。

おっと、振り向いた先に看板だ。またもや「ちかんにはちゅういしましょう」と書いてあるぜ。へ、注意したぐらいで、なくなるくらいなら警察はいらねえんだよ。

こういう時はツカミが肝心。俺は歩調を早めると、女の後ろからつかみかかった。左手でナイフを女の頬に当て、右手で女のショルダーバッグにかかっている手を押さえる。叫ばれたり、防犯ベルや何かを取り出されたりしたらすべてはおじゃんになるからな。

そのまま後ろに倒すように引きずる。重心を後ろに崩されると、足の踏ん張りが利かないから抵抗が無駄になるってわけだ。 女はたいした抵抗も示さない、というよりできないんだろう。人間、異常事態に巻き込まれると、精神活動が一時ストップするからな。

俺は女を工事現場の柵の中へ引きこむと、女をコンクリートの上に引きずり倒して、馬乗りになった。

「へへっ。馬鹿な女だなぁ。おめえよぉ、こんな夜更けにひとけのないところを一人で歩いているなんてよ」

俺は女をあざ笑ってみせる。心理的に絶望感を味あわせときゃあ、無力感が増すってもんだ。右手で胸をつかんだ感触はなかなかいい。結構でかいぜ、こりゃ。

だが、女は無表情だった。かわった女だな、こいつは。声のひとつも立てねぇ。抵抗すりゃ、二三発張ってやろうと思ってたのによ。 その女の目が、俺の目とあった。それを俺は誘いととった。なんだよ、こいつ。レイプ願望でもあるんじゃねえのか。

俺はナイフを持ったまま左手で、女の髪の毛をつかみ、顔をあおのかせると、顔を近づけていった。女の目は俺の目に向けられたままだ。どうにも調子が狂うな、こりゃ…、まいいか。ここまで来りゃあ、女の態度がどれだけおかしかろうが一緒だぜ。

さあて…。

-

男が顔を近づけていくと、女は空いていた左手で男の首を抱き、自らその唇を男のそれに吸いつけた。

ジュクリと、異様な音が、男の耳に聞こえてきた。いや、耳に聞こえてきたというよりも、つばを飲み込む音が体を伝って、内側から鼓膜に響くのと同じ感覚で、その音は内側から鼓膜を振動させたようだった。

何だ?と男は思い、顔を離して女を見る。その女の顔に、ぽたりぽたりと水滴が落ちた。雨?いや、そんなはずはない。ここは建築中とはいえビルの中で天井はあるし、だいたい女の顔の真上には男の頭があるのだ。

男がそこまで思い至った瞬間、口に強烈な痛みが走った。

「うごぉぉぉぉ」

まともに発声できない悲鳴を発して、男は女の上から飛びのくと冷たいコンクリートの床の上を転げまわる。その口元に当てられた手からは黒い液体が染み出してきていた。

女は上体を起こすと、男をその無表情な目で眺めた。月光にさらされたその美しい顔は、口元についた…血を考慮に入れても、いや、その赤黒くしたたる血こそが荘厳さと淫猥さを添えていた。

ハンカチで自分の顔についた血をふき取った女は立ち上がり、ショルダーバッグから紙のようなものをとりだすと、ひらひらと投げよこした。

男の胸の上に落ちた紙の上に、女は口をすっとすぼめると何かを吐き出した。まるで重石のようにそれは紙の真上に落ちた。

動きが痙攣に変わった男に、それから一瞥を与えることもなく、女は姿を消した。

染みは男の周りにさらに広がっていった。

-

朝。

警察署に1件の通報が入った。

野次馬でごった返している工事現場に到着した警官が見たものは、血で赤く染まったコンクリートの上で倒れている若い男の死体と、その横に落ちていた一枚のポスターだった。

そのポスターはこの地区で貼られている痴漢注意のポスターだったが、全部ひらがなで書かれているその文字の一つ「い」の文字のところに被害者のものであろう舌が乗せられていた。

そのおかげでそこには

ちかんにちゅうしましょう

というメッセージが踊っていた。

2004/07/10
2005/7/16再up

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