謎かけ
にぎやかなものだ。
ぽつりと青年は言葉を吐き出した。
ここは砂漠の真中も真中、ど真ん中にあるオアシス。
そのオアシスのほとりにつくられているバザールに青年が足を踏み入れたのは、今朝のことだった。砂漠には珍しい雨が少し前に降った。それによってできたのであろうこのオアシス。そのほとりにいつのまにやらこれほどにぎやかなバザールが開かれている。雨が降るまでは、ここにはただ砂があるだけだったのに、今この瞬間を見ると、まるで千年も前からここには町があったかのような必然的なたたずまいをもっている。それもまたバザールの期間が終われば、元のただの砂漠に帰るのだろう。
まるで雨上がりの虹のような。
もしその一時だけのものだとしても
にぎやかなものだ。
青年は宿屋の窓からバザールを見下ろしながら、再びひとりごちた。
延々と続く砂の地平線の向うに太陽が傾こうとしていた。
バザールでは交易商人たちの活気づいた掛け声が飛び交っていた。呼び込みの声、商品を売り込む声、買う側の値切る声、さまざまな勢いに裏打ちされた声があふれかえっていた。
青年は荷物をまとめると、手早く衣類、革鎧を身に着けた。
陽が落ちれば出立だ、それまでに食糧や薬品などを入手してこなければ。
青年は革袋を持ち、長剣を肩に背負うと、宿屋を後にした。
天と地の間に浮かぶうたかたの世界、それがこの世
人、いやこの世に生を受けたものは、そのうたかたの生を生きる
その生きとし生けるものはすべて大地より生まれ
大地によって育まれ
大地によって養われている
大地はすなわち大地母神のすまうところである
「コノジュースオマケシテオクヨ。オニイサン交渉上手。カナワナイナァ」
青年は約一週間分の食糧その他を買い込むと、裏路地に入ったところで一息ついた。海千山千の人種、商人たちとの値切りの交渉というのはなかなか疲れるものである。押したり引いたり、という駆け引きは戦場のものとかわるわけではないが、駆使するのが肉体ではなく、頭脳と口先というのがこの青年を辟易とさせたのである。それでもなんとか値切ることができたらしい。
おまけにもらった果実水を手にもちながら、地べたに座り込んだ。人がごった返してほこりっぽい空気、その上しゃべりつかれた喉に柑橘類の果実が絞り込まれた水は心地よかった。一気に飲み干すと、器を袋にしまった。
太陽も地平線に沈むか沈まないか、まっかな夕焼け色をし、暑さもなりをひそめ始めていた。
よし、と着合いをいれて立ち上がったその背中へ、
「ちょいとそこのお兄さん」と声がかけられた。
またなにか売りつけにきたのかと、うんざりとした顔で青年が振り向くと、そこには一人の女が座っているのが見えた。 美人・・・かどうかはわからない。頭部からすっぽりと全身ヴェールで包まれていたからだ。その隙間から大きな黒瞳がのぞいている。吸い込まれそうなほど純粋な黒色をしていた。
「お兄さん、占いやってかない?」
青年が返事をする前に女が再び声をかけた。
占いやってかない、と言うだけあって、その女の前に置いてある粗末なテーブルには、大きな水晶玉が乗っていた。それに、その商売柄にふさわしい身なりでもある。
「すまんが、占いに金を払うほどの…」
うさんくさいものを見る表情を隠そうともせず青年が断ろうとそういいかけたとき、
「王城が見えるよ」
女が言った。
「なんだって?」
言葉を遮られて青年が聞き返した。
「見事な王城が見えるよ」
女は水晶球を見ながら、うん、と一つうなずいた。
「アナタ、ロハでいいよ。だから占わせてよ。久しぶりに面白い人間の先行きが見れるってもんだよ。アナタ結構面白い人生しょってるよ」
「だから、占いなんてのは必要は…」
「アナタ、テーバイに行くことになるよ。」
「…」
「テーバイでアナタ王様になるって出てるよ。」
青年は狼狽した。この自分が王になるだって!?
「あいにく俺は占いは信用しないことにしているんだ。」
心の動揺を押し隠して青年は言った。神託ではなく、こんな場末の占い師の言うことなど信用できるものか、と言い聞かせつつ。
女は、その内心を見透かしたのかそうでないのか、クスリと笑うと、
「信じてないわね。まぁ、それもしょうがないけどね」
女は肩をすくめた。
「ところで、アナタ、このバザール、市場がどうやってできたか知ってる?」
いきなりなにを言い出すのか。
青年が怪訝そうな表情を浮かべたが、それにかまわず女は言葉を継いだ。
「市場が立てられるのは、どこでもいいというわけではないの。」
「ここにオアシスができているからじゃないのか」
「まぁ、それもあるけどね。市というのは虹が立ち昇った場所でしか立てることはできないのよ。遠い国のある部族には、虹は大地に住む蛇が天空に立ち昇るときに発現する、って言い伝えがあるんだけどね。蛇として表現される大地の強度が噴き出したところこそが市場としてふさわしいのよ」
そこで女は意味ありげに笑みを浮かべた。
「つまりこの場所は、大地の力が充満している場所なの、ここでの占われたことは、アナタの信じている託宣よりも…まぁいいわ。今見えた以上のことを見ようとすると、今のワタシではちょっと力不足。アナタの血か髪の毛でももらえると占えるんだけど…毛嫌いされちゃしょうがないわね。」
女がそこで言葉を切って、視線も下げたので青年は無言できびすを返し、女に背を向けた。
「また、会うことになるわ。アナタとは。大地の力がそれを告げているわ」
睦言をささやくような声が風に乗って届いた。
青年が思わず振り向くと、すでに女占い師の姿は見えなかった。
まるで夕闇に溶けてしまったかのように。
まさか妖しのものか・・・厄払いが必要かな、と青年は思った。
-
太陽が砂漠の砂の下に姿を隠してしまった頃、青年はオアシスを後にした。
あと一週間もあれば辿り着けるだろうか、青年は昇りはじめた月を見ながら想起した。
砂漠のたびは、夜行くに限る。昼間の太陽は人間を消耗させるもの以外のなにものでもない。だから砂漠の民は月のやさしい光を愛した。その月光のもと、青年は前進を始めた。テーバイ国へ向けて。なにがなんでもテーバイのアポロン神殿の神託を受けねばならなかったからだ。それが自分と自分の元いた国、それにテーバイ国の命運をも決定する、と国の神官は青年に告げていた。
天と地の間に浮かぶうたかたの世界、それがこの世
人、いやこの世に生を受けたものは、そのうたかたの生を生きる
その生きとし生けるものはすべて大地より生まれ
大地によって育まれ
大地によって養われている
大地はすなわち大地母神のすまうところである
昼と夜をいくつ通り過ぎただろうか。
また太陽が昇りはじめ、その陽射しが強くなってきた。
やがて青年の目の前には峡谷が、そしてその真中に1本の吊り橋が見えてきた。砂漠も終わりに近づいたのだろう、砂よりも岩場が目に付くようになった。
そして、深くて見えないが、つり橋のある峡谷の谷底には、川が流れているらしく、峡谷に近づくにつれて、少しだけ涼やかな風が吹いてくるのが感じられ、青年は汗をぬぐって、ふっと息をついた。
この川を越えればあと一日も歩くとテーバイ国だ。きゅっと口元を結ぶと、青年は吊り橋に近づいていった。
年代ものなのだろう。谷を渡る風の吊り橋をきしませる音が聞こえてくるころには、その橋のたもとに、一つの人影を見出すことが出来た。
「また会ったわね」
人影が青年に向かって言った。
「何をしている?」
橋の前まできた青年は、そう問うた。
「だから言ったでしょう?また会うことになるって」
その声の主はオアシスのバザールで出会ったあの女占い師だった。
「ここで何をしている?いや、どうやって俺より速くここに来た?」
青年は休みをできるだけ少なくして、歩き通しだった。青年の背丈は190cmはあろう。全身これ筋肉か、と思われるほど鍛えられた体躯をしていた。その体躯を革鎧、が覆っている。この大男が軽装で歩き通した距離を、小柄な女占い師がヴェールのような動きにくい衣装を着た状態で、先回りできるわけがない。
「空を飛んで、よ」
問われた女は青年の目を見つめ返しながらこう嘯いた。
「まぁお前が空を飛んでこようが、地に潜ってこようが、どちらでもいい。俺はその橋を渡りたいのだ。そこをどいてくれ」
吊り橋の入り口を阻むように女はたたずんでいた。「渡ればいいわ。ただしワタシの問いに答えることができたら」
女はそのままの姿勢で言った。道を空けようという気はないらしい。
「俺はお前のごたくに付き合っている暇はない。そこを退かないと、女と言えども容赦する気はないが」
青年は苛立ちを隠さなかった。
「フフ、力づく、というわけね。でもそれは通じないわよ」
口元に手を当てて小さく笑うと、大男の青年を見上げるように女は言った。第三者がこれを見ていたとしても、からかっているとしか思えない仕草だった。
「女相手というのは本意ではないが、どうあっても退かないというのなら、しょうがない」
青年はこれ以上議論を交わす気はなかった。女とはオアシスで声をかけられただけだし、ここを通さないと言われる由縁も青年にはない。
押しのけても通ろうと手を上げた青年は、しかしその手を止めた。
不意に聞こえてきた、ミシリ、という音に遮られたのだった。
骨がきしむような、なにかが膨張するような、しかしこれまで聞いたことのない音。動きを止めた青年は女を睨めつけた。周囲にはなにもない。つり橋のきしむ音ではなかった。この場でそんな音を立てられる存在など自分と女以外には存在しない。自分ではないのだから、必然的に目の前の女占い師、ということになる。
ミシリ、という音が再び聞こえた。やはりその音は女から聞こえてくる。
女が浮かべた笑みに不気味な、なにかえたいの知れないものを感じた青年は数歩後ずさった。青年の目には、女の姿が一回り大きくなったように見えていた。
ミシリミシリ
ギシリギシリ
音が大きくなりさらに激しくなっていった。その音に比例するように、女の体がヴェールの中で変形していくのが目に見えてわかった。 女は空気を膨らませた風船のように膨張しはじめた。すぐにヴェールにおさまりきらないようになり女の体が肉眼にさらされるようになった。それは風船、といっても巨大でいびつな風船のようだった。ヴェールを引きちぎるかのように現れた女の手足は獣のそれであった。みるみる女の目線が青年の高さをこえ、さらに跳び退った青年は背中の長剣に手をかけた姿でそれを呆然と見上げた。ヴェールなどすでにはじけとんでいた。身体の表面は黄金の体毛、手足には鋭い鉤爪、その四つ足でどうどうとふんばった姿は雄大な獅子身であった。普通の獅子と違うのは、背中に生えた純白の大きな翼があるということ、上半身には見事な人間の乳房が並んでいるということ。そして頭は女自身のままだということだった。もっともこれまでヴェールに包まれていたので、その表情を見るのは青年は初めてだったが、浅黒い端正な細面に、切れ長の目、鼻はつんと高く、口は丹を塗ったように赤く染まっていた。世界一の美女と銘打たれても誰も異存は唱えないだろう。身体が通常の人間のものであれば、の話だが。
その切れ長の目が青年に向けられた。
「ふぅ。すっきりしたわ。こっちの姿の方がワタシは楽なのよ」
「これがお前の本性、というわけか、化け物」
「化け物とは心外ね。ワタシにはちゃんとスフィンクスという名前があるのよ」
「そうか、おまえが人に謎をかけては答えられない者を喰うというスフィンクスか」
「あら、ワタシのこと知ってたのね。うれしいわ」
「オアシスの時は俺を品定めしていたのか」
「あれは偶然よ。偶然。大体、ずっと一つ処にいるのって退屈なのよね。おなかも空くし。で、餌探ししてたらアナタを見かけたってわけ。そうしたらここを通るっていうお示しがあったからね」
獅子身の身体になってもその声音はそれまでと同じだった。それがかえって不気味に響く。
「だから、そんな剣を持ってみたところで、人の身でワタシを殺すことなんてできないのよ。力づくなんて考えないことね」
この姿を見てしまっては、戦士姿の青年でも、躊躇せざるを得なかったのだろうか、剣に手をかけた姿勢のまま微動だにしなかった。それを肯定ととったのか女、いやスフィンクスは問いを発した。
「じゃあいくわよ。『地上で同じ名前をもっていながら、朝には四足に昼には二足に夕べには三足になって、地上を歩き、水中でも動き回れ、またそのうちで性質を唯一変えるもので、四足で歩く時が1番遅い生き物とはなにか?』」
まことに奇怪な質問だった。そのような非日常的な生き物など存在するわけがない。
青年はやはり少しも動かずに言った。
「それに答えれば、お前はこの道をあけるのか?」
「答えられれば、ね。答えられなかったら、アナタの命をもらうわ」
女は媚を含んだように、褥に誘うようなしなをつくって、それに応えた。喰うモノと喰われる者、というよりも、そこにいるのは男と女だった。
「ならばそれに答えてやろう」
青年は一際大きな声で叫んだ。
天と地の間に浮かぶうたかたの世界、それがこの世
天と地とのような存在は近接して存在することはない
否、近接してはならない
もしそのようなことが起こるならば
全ての均衡はやぶれ
未曾有の災厄が襲うことだろう
「それは『人間』だ!」
スフィンクスの笑みが凍りついたように見えた。
その、佳境に入るよりも早く、突然に訪れた破局をとどめるかのように、スフィンクスは問い返した。
「なぜ…そう思うの?」
「『朝には四足に昼には二足に夕べには三足』これは赤ん坊が這う姿、成人して普通に歩く姿、老いて杖を突く姿のことだ。人間それぞれは一つの名前を持ち、地上に存在するが泳ぐことも出来る、そして四足のときがもっとも遅い。これが答えだ」
青年は間髪をいれず答えを返した。
答えられたものには害を加えない。それが伝承による約束だった。
「この千年の間、一人だって答えられたものはいなかったのに…。そんなにあっさりと答えられちゃつまらないわね」
スフィンクスは諦めるように首をふった。
「その答えられなかったものをどうした?」
「もちろん、ワタシの胃袋の中よ。そういう約束ですもの。さ、アナタは通っていいわ」
肩を落としたスフィンクスがゆっくりと橋のたもとから横へ退いた。
そのとき、びゅう、と剣風がうなり、獅子身がのけぞるように前脚を高く振り上げた。
青年がこれまで微動だにしていなかった体勢から一気に長剣を抜き払い、スフィンクスに向かって斬りつけ、それをスフィンクスがかわしたのだ。
「無軌道な男ね」
そのまま翼をひろげて、飛び退ったスフィンクスは威嚇の体勢をとりながら叫んだ。
「アナタは問いに答えられた。だから通してあげるって言ってるのよ」
「俺は助かった。だがこれまでの者は助からなかった。そしてこれからの者も助かるとはいえないだろう」
青年は長剣を八双に構えた。
「そう、万民のためアタシを倒そうってわけね…そういうことなら、心置きなくアナタを八つ裂きにしてあげるわ。惜しいけど」
ガァッとスフィンクスはその口を大きく広げた。口中には牙がびっしりと並んでいた。威嚇しようというのだが、青年はそれでは動じることはなかった。
スフィンクスは威嚇のあとは動かず、じっと睨みつけていた。先ほどの剣風が身にしみているのだった。まるで風圧だけで身を斬れるか、という勢いに、表情には出さなかったが、内心舌を巻いていた。
青年にしても、この体格差の上にスフィンクスには猫科動物特有の俊敏さもある。うかつには動けなかった。
かかりの一瞬が勝負を分ける。それがどちらにもわかった。ガァ、と再び吠えるや、スフィンクスは大きく翼を羽ばたかせ飛び上がった。砂という砂が舞い上がる。
その砂塵の舞いに、青年は思わず目を閉じた。
目潰しによってできた隙。スフィンクスの前脚が大きく薙ぎ払われた。避ける暇もなく剣で受け止めたのだが、青年は苦もなく弾き飛ばされ、岩礁に背を痛打して、どうと落ちた。
「ぐはっ」
肺の空気が一度に吐き出され、瞬間、息ができなくなる。
ずしり、と青年の胸板にスフィンクスの右前足が乗せられたのだ。左前足は剣を握ったままの右腕を踏みつけていた。重い、この圧力の前では、いかな剛力の者でも人間では身動き一つできないだろう。
スフィンクスの女の顔が青年の眼前に突き出され、剣山のように綺麗にならんだ牙が剥きだされた。
「ここまでかしら」
青年はそういったスフィンクスを睨みつける。まだ目は輝きを失ってはいなかった。
「アナタの未来の姿をもう一度詳しく占ってみたかったけど…こうなったらしょうがないわね」
口中を切ったのかくぐもった声で青年がその言葉に応じた。
「俺はテーバイの王になるのではなかったのか。おまえの占いもたいしたことはないな」
スフィンクスはその言葉にも特に痛痒を感じた様子もなかった。
「そうね。そういう可能性があった、ってこと。大体、アタシにいわせれば、未来なんて変わるものよ」
笑みを絶やさずにスフィンクスがそういったとき、
「そのとおりだ」
叫びとともに青年は、近づけられていたスフィンクスの目をめがけ、青年は口中にたまった血を一気に吹き出した。
「キャッ」
血で目を封じられたスフィンクスは、その体躯に似合わない嬌声を発した。そして両前足で、目をこする。
鼻先に毛虫でもついた猫のようなスフィンクスの腹を、長剣が一閃した。
「ギャアアアアア」
こぽこぽとスフィンクスの血が滴り落ちた。痛みに反応したか、めちゃくちゃに暴れまわる。両の足を見境なく振り回し、後ろの足で飛び跳ねる。
これに当たっては、と青年は離れて剣をかまえた。
「ぐぅっ」
喉の奥を鳴らすような声を発し、スフィンクスの動きがとまった。
力尽きたのではない。両後脚をふんばり、右前脚を振り上げた状態でぴたりと止まってしまたのだ。
何事がおきたのか、と青年はいぶかしみながらも、すぐには仕掛けられなかった。罠かもしれない。
突如訪れた静寂が過ぎてゆく。それが1秒、2秒、3秒とたったところで、青年は一気に踏み込んだ。スフィンクスの体が微妙に震えていた。まるでなにかにおびえるかのように、その巨大な体が、震えていた。
「うぁぁぁぁぁぁ」
人面からそのようなうめき声が漏れる。飛びかかった青年はそのスフィンクスの首を長剣で斬りつけた。腹を斬ったときとは比ぶべくもない、大量の血が噴水のように噴き出す。返す刀で頭部を襲おうとしたスフィンクスの右前足を斬り飛ばした。
聞くもの全てが耳を塞ぎたくなるような断末魔の声を発し、スフィンクスはヨタヨタと後退する。
頚部を斬られてもなお生きているスフィンクスに、青年はまだ長剣を構える。
片前足を切り飛ばされ、バランスを失ってフラフラと、まるで酔っ払いの猫のように、千鳥足になりながらも、スフィンクスは見えない目を青年のいる方へ向けた。
「ア、アナタの未来が見えたわ…」
そう告げたスフィンクスの足は谷底の崖っぷちにさしかかっていた。だが、視覚を奪われているスフィンクスにはそれが見えない。
「アナタの…未来は…」
スフィンクスは足を踏み外した。その大きな体躯が崖から真っ逆様に墜落していくのが見えた。自慢の翼を開く余裕も力も残っていなかった。
-
風をきって落ちながら、スフィンクスは目をつぶされてから数俊の間に見たものを反芻していた。
青年の血を吹きかけられ、数瞬見えなくなった視覚に浮かび上がってきたものは、その青年の姿だった。いや、実際に見えているのは、母親のもとに這い這いで歩み寄る玉のような赤子だった。王によって追放されるその赤子は、青年だった。
オアシスでスフィンクス自身こう言わなかったか。
血か髪の毛でももらえると占える、と。
赤子が消え去ると、次に赤子は青年の形をとった。青年が今度は母親であるべき女性と共に、王と王妃として壇上に上がっていた。頭に王冠を戴き、民を前に立ち上がって、その祝福を受けていた。最後にスフィンクスが見たものは、青年が母親でもある王妃を殺し、自分も目を突いて盲目になり、杖代わりに長剣を手にし、娘に手を引かれ、足をひきずりながら、その国を去っていく姿だった。
それらの映像がスフィンクスの見えなくなった目に映し出されたのだった。
-
谷底深く、スフィンクスの姿が消え去ると、青年は大きく息を吐き、構えていた長剣を背に戻した。手傷は負ったが、そこまで大きなものはない。打撲のひどいのがある程度だ。それを確かめると、辺りを見回し。橋を渡り始めた。
橋を歩く青年の耳に、風がささやいた。
「アナタの答えは正しかった。その答えは『人間』であり…アナタ自身」
青年は足を止め、その風に耳を澄ませた。風はスフィンクスの、あの女の声を持っていた。
「いずれ・・・地の底で・・・会い・・・ましょう」
谷底からの声を聞いた青年は、何も言わず、視線を橋の先に戻すと、再び歩き出した。テーバイの方へ。破局の方へ。
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-
青年は自分の生い立ちを知らない。
青年は実の父がテーバイの現王ライオスであることを知らない。
青年は自分がそのライオス王を手にかけてしまうことを知らない。
青年は実の母がテーバイ王妃イオカステであることを知らない。
青年は自分がそのイオカステを王妃としてしまうことを知らない。
青年はそれによってこの世すべての災厄をテーバイに引き寄せてしまうことを知らない。
そしてそれらの災厄が、スフィンクスの謎を解いてしまった、その行為のせいでもあることを知らなかった。
-
青年は、オイディプス、という名前を持っていた。
2005/07/29